ぼくの地元である船橋市は、このところ「コーヒーの街」として知られるようになってきた感がある。コーヒーにまつわるイベントが大々的に行われたり、全国トップレベルのバリスタを続々と輩出したりもしているのだ。
そんな機運にある船橋で、いま、ぼくがイチオシするバリスタといえば、「喫茶いずみ」のマスター、伊藤拓史さん(37)である。

もともと写真現像のラボだった一室を居抜きで喫茶店にしたという店内は、お世辞にも「喫茶店らしい」とは言えないけれど、しかし、それを補って余りあるほどにマスターの腕がいいのだ。

この人をあえてひとことで表現するならば、シンプルに「コーヒーおたく」となるだろう。しかも「超」という冠が必要になるレベル。
軽い「狂気」を感じるほどコーヒーに情熱を注ぎ続けているこのマスターが淹れる一杯は、いつだって「特別」なのだけれど、今回、ぼくが「やぱ千葉」取材チームを連れていくと、マスターはちょっと興奮ぎみに口を開いた。
「ひゃぁ、今日、来るなんて! 森沢先生は、やっぱり特別に持ってるなぁ。じつは、ついさっき、これを焙煎したばかりなんです」

言いながらマスターは焦げ茶色にローストされたコーヒー豆をカウンターの上に出してくれた。
で、それを見たぼくも、思わず――。
「うわ、マジか……」
と興奮のあまり目を見開いてしまった。
なんと、それは、幻のコーヒー「コピ・ルアク」だったのだ。


「コピ・ルアク」とは、コーヒー豆を食べたジャコウネコの糞のなかからのみ採取される、とても、とても、貴重な豆である。
喫茶店によっては、コーヒー一杯で三〇〇〇円もとるほどだ。
幸運にも、ぼくは十年ほど前に知人からこの豆をプレゼントしてもらったことがあって、我流で淹れて飲んだことはあるのだけれど、それ以降は、豆を見たことすらない。
「せっかくだからコピ・ルアクを飲みたいんだけど、お値段はいくら?」
ぼくが訊ねると、マスターはちょっと申し訳なさそうに、「これは、一杯、一一〇〇円ですね……」と言う。
なんと――、想像を遥かに下回る安さである。
ぼくらは当然のごとくコピ・ルアクを注文。
すると、マスターは、あえて少量ずつ二種類のドリップ方法で淹れてくれるという。
「コーヒーを飲む」という行為を、とことん愉しませてくれるのが、このマスターの真骨頂なのだ。


というわけで、まずは「軽い風味」ヴァージョンからネルドリップ開始である。
「ジャコウネコが豆と一緒に食べた土の香りを表現できれば成功なんですけどねぇ」
目の前であれこれうんちくをしゃべりながら、マスターは細いお湯の筋を繊細に動かし、じっくりとコーヒーを落としていく。

いつもは冗談ばかり言っているマスターだが、この瞬間だけは目が真剣な職人そのもので、格好いい。
「はい。完成です。どうぞ」
差し出された小さなカップで、幻のコーヒーを味わうと――、なるほど、ジャコウネコが棲んでいる森の腐葉土を思わせるような、とても豊かな旨味と香りが、口のなかにも鼻のなかにも広がった。

かつて、ぼくが自分で淹れたコピ・ルアクは、もっと甘みが強くて、かすかにハワイ・コナを彷彿させたのだが、マスターが淹れるとこうも違うのかと感動してしまった。
二杯目は「重たい風味」ヴァージョンだ。
マスターはさっきよりも、いっそう時間をかけてドリップする。

「今度は、やわらかな『春の畑』をイメージしながら、どっしりとした感じに淹れますね。ほら、落ちていくコーヒーの色がさっきと違って黒いでしょ?」
マスターの解説を聞きながら、ぼくらは「あ、本当だね」「全然違う」と、興味津々である。

二杯目に選ばれたカップは、おちょこの形をした中国茶の茶器だった。
それをつまんで、幻のコーヒー第二弾を口に含む。
思わず、ぼくは「うむむ……」と唸ってしまった。
マスターの言葉どおり、春の畑の土のようにふくよかでありつつも、心地いい苦味がどっしりと舌を包むような、新しいコピ・ルアクになっていたからである。
「すごい。一杯目と、まったく違いますね」
取材チームは口を揃えてそう言った。
もはや、同じ豆とは思えないほど、風味に違いがあるのだ。
やいのやいのと感動を口々に伝えるぼくらを眺めながら、カウンターの向こうで嬉しそうに笑うマスター。

「喫茶いずみ」のコーヒーは、一杯一杯に「思想」が込められている。しかも、素人の舌でも充分に違いが分かるよう、あえてそれを「エンタメ的な思想」にしてくれるのが、いい。
聞けば、マスターのモットーは「楽しく淹れて、楽しく飲む」とのことなので、やっぱりマスターはエンターテイナーなのである。
あ、そうそう。

この「喫茶いずみ」では、マスターが手作りしている「コーヒーによく合うスイーツ類」も人気だ。カヌレ、プリン、ベイクドチーズケーキ、アイスクリーム、コーヒーゼリーなどが揃っているので、来店した際は、ぜひとも試してもらいたい。
究極の「おたく道」を極めた絶品コーヒーを、スイーツが絶妙な甘さで引き立ててくれるだろう。
◇ ◇ ◇
さて、コーヒーおたくの店を出たぼくらが次に向かったのは、手作り腕時計職人の工房兼直営店である。

ブランド名は「アトリエサザンカ」。
代表にして職人をしているのは、高橋信幸さん(33)である。
この高橋さんが、たったひとりで金属の板や牛革からこつこつと作り上げる「唯一無二の腕時計」は、いまや船橋市が授与する「ふなばしセレクション」に選出され、船橋市公認ブランドとして知られている。

じつは、以前からぼくも「アトリエサザンカ」のことは知っていて、ネットでもチェックしていた。そして、その個性的なデザインに惚れてしまい、いつかは欲しいなぁ、などと妄想していたのである。だから、今回の取材は俄然テンションが上がるのだ。
しかも、今回は「アトリエサザンカ」の腕時計を買うのではなく、高橋さんに指導してもらいつつ、「自分で作れる」というのだから、さらに気分は盛り上がってしまう。
アトリエは、船橋市街から少し外れたところにあった。
ノックをして、迎え入れてくれた高橋さんと、初めましてのご挨拶。ありがたいことに、高橋さんは船橋を舞台に描いた拙著『きらきら眼鏡』の読者だった。しかも、映画化の際にいろいろと協力してくれたというから、頭が下がる。

工房内にあるショーケースを覗き込むと、まあ、あるわ、あるわ、格好いい「唯一無二」の腕時計が。眺めていると、あれも欲しい、これも欲しいと、気分が悶々としてしまいそうなので、とにもかくにも腕時計教室を始めて頂くことにした。

工房の椅子に座り、まずは高橋さんのレクチャーを受ける。
いわく「アトリエサザンカ」は関東で唯一の腕時計教室でもあるそうだ。しかも、初心者の体験コースだけではなく、プロになるためのコースまで用意されている。
もちろん、ぼくは初心者コースをお願いしたのだが、あなどるなかれ――、ちゃんと文字盤を自分でデザイン制作し、針を選び、そして、皮革ベルトの染色までやらせてもらえるのである。ここまでやらせてくれる体験教室は、日本でもここだけだという。
さて、実技スタートである。


まずはデザインイメージを絵で描いて、使用する素材を選び、そして、文字盤の加工をしていく。難しいところ、気になるところは、高橋さんに相談すれば親切に指導してくれるので安心だ。
ぼくは自分の名前の漢字「明」という文字を「日」と「月」に分解し、それをデザインに取り入れることに決定。しかも、「和」のテイストにしたかったので、千代紙の一部を切り取って貼り付けるなどもしてみた。
叩いたり、削ったり、切ったり、貼ったり……。
愉しい時間はあっという間に過ぎていく。
こうして文字盤が完成したら、次は針選びである。

針は、高橋さんがすでに作った幾多の商品を見比べて、そのなかからお気に入りを選べるのだけれど、「針乗せ」には熟練の技術がいるので高橋さんがやってくれる。
ちなみに時計を動かす精密機械である「ムーブメント」は、信頼のセイコー製品なのが嬉しい(これが粗悪品だと、どんなにデザインがよくても時計としては役立たずになってしまうでしょ?)。
皮革のベルトは十八色のなかから色を選び、色むらにならないよう丁寧に塗り込んでいく。ぼくは飽きのこないシックな黒をチョイスしたが、黒はいちばん塗りやすく、色むらにもなりにくいのだそうだ。
さて、針とムーブメントのついた文字盤を、高橋さんが手作りしたケースとガラスと合体させて、染色したベルトをしっかりと留めたら、
世界で、唯一無二の腕時計の完成――。

出来立てほやほやの腕時計を見ていると、これがやたらと嬉しい。下手は下手なりに、嬉しいのである。
にやにやしながら、ぼくは高橋さんに訊いた。
「そもそも、高橋さんが腕時計を手作りしようと思ったきっかけは何だったんですか?」
すると高橋さんは、ちょっと懐かしそうな目をして語ってくれた。
「かつて商社の仕事をしていたとき、くたくたに疲れて電車に乗ってつり革につかまったら、となりのつり革につかまっていた人の腕時計がぼくの腕時計と同じだったんですよ。しかも、それ、決して安い時計じゃないのに。それを見たら、なんだかすごく悲しくなって、ぼくは自分の腕時計をはずしてカバンにしまったんですよね。そのとき、他人と違う『唯一無二』の腕時計が欲しいと強く思ったんです」

その後、高橋さんは自分だけの特注品を作ってもらえないかと、いくつかのメーカーに問い合わせてみたものの、あえなくフラれてしまう。対応可能なメーカーは一件だけあったのだが、しかし、「一〇〇本まとめてロットで買ってくれるなら」という条件がついたのだそうだ。
だったら、もう、自分で作るしかない――。
そう思って高橋さんは腕時計作りの研究をスタート。そして、それが今日の「アトリエサザンカ」へとつながったのである。
「まだ自分の趣味として腕時計を作っていた頃、作品をネットでアップしたら『売って欲しい』という人が何人も現れたんです。で、いつの間にか仕事になっていましたね」
大人が本気で遊ぶと、いつか、それは仕事になる。
思えば「喫茶いずみ」のマスターも、そもそもはドトールコーヒーでアルバイトしたことがきっかけでコーヒーの世界にハマり、研究しまくっているうちにプロのバリスタになったのである。
愉しいことを極め、それを仕事にし、その技で多くのお客さんたちを幸せにするという生き方。
マスターも高橋さんも、その横顔には「自分の人生に納得している」と書いてある。そして、そういう大人は、やっぱり格好いいのである。

【喫茶いずみ】
〒273-0866
千葉県船橋市夏見台1-19-10-107
TEL: 047-767-0915
定休日:月曜日
【ATELIER SAZANCA】
〒274-0817
千葉県船橋市高根町728-1
作者:森沢明夫
写真:鈴木正美
写真アシスタント:重枝龍明
編集:西小路梨可

