御宿といえば「月の砂漠」を思い浮かべる人が多いと思う。
しかし、ぼくにとっての御宿は「サーフィンの海」である。
じつは高校生の頃、ぼくはサーファーだった。車なんてないから外房線に乗って週末ごとにちまちまと海に通う「電車サーファー」だったのだ。
古いアルバムを開けば、チョコレート色をしたぼくがサーフボードを抱えた写真がいくつか残っている。それを見返すと、いまでも胸が甘く痛むし、ビーチの刺すような日差しと潮風の匂いがリアルによみがえってくる。
十数年ほど前のこと――つまり、まだぼくが小説家になる前の、フリーライターだった頃――、とある雑誌に取材を頼まれて、懐かしい御宿を訪れた。でも、そのときは「海」ではなく「里山」のなかにぽつんと建つ古民家レストランが取材先だった。

そこは「雅流懐石」を食べさせる、いわゆる「農家レストラン」の走りのようなところで、古色蒼然とした雰囲気と季節の料理が素晴らしく、知る人ぞ知る隠れ家的な場所だったと記憶している。
「雅流懐石」というのは、京都の「おばんざい」をヒントに、女将さんが腕によりをかけた「我流」の懐石のことである。ようするに造語なのだが、「雅」という文字を充てているのが洒落ているではないか。
さて、あれから時代は流れて、2018年の晩秋。
ぼくは、その地に舞い戻ってきた。
もはや隠れ家どころか御宿の有名店となった「愚為庵」に。
しかも、たまたま、かつての取材時にも同行してくれた鈴木正美カメラマンと一緒に、である。

久しぶりに訪れた「愚為庵」だが、築200年を超える堂々たる茅葺屋根の古民家は健在だった。
庭では柵に囲まれた鴨たちがガアガアと鳴き、葉の落ちたしだれ桜は狂い咲きをしていた。
頭上を見上げると、熟した柿の実のオレンジ色がひとつ秋空に映えている。



玄関へと続く飛び石。囲炉裏のある土間。
土間の黒光りする太い梁にはツバメの巣がいくつも残されているのだが、その巣を見て思い出した。
以前、ぼくがここを訪れたとき、季節は春だった。
子育て中のツバメたちがビュンビュンと土間に出入りしていたのだった。
「愚為庵」の料理は、やはり好きだ。
自家農園と地元の食材をなるべく使いながら、季節感を存分に味わわせてくれるのがいい。


この日の献立は――、タイとマグロとアジの刺身、柿の胡麻和え、かぼちゃとキノコのグラタン、ゆでピーナッツ、和牛の網焼き、さらに、シイタケ、サワラ、エビ、ホンビノス貝、ムカゴご飯……と、まさに「少量多品種」なコース料理を堪能させてもらった。
〆は、ほんのり優しい甘さのイチジクのコンポートで、これもまた美味しい。

すべてを平らげ、ゆったりコーヒーを味わっていると、組子の障子紙の向こうからカラスの鳴き声が聞こえてきた。
ぼくはそっとコーヒーカップを置いて、満腹のおなかをさすりながらつぶやいた。
「静かだなぁ……」

御宿は海もいいけれど、里山も味わい深くて素敵だ。
また、カラスが鳴いた。
さっきよりも鳴き声が遠く、里山の静けさが際立った。
きっと、また、ぼくはここに来るんだろうな。
確信的にそう思って、最後のコーヒーを飲み干した。
◇ ◇ ◇
車で御宿の海沿いに出て、国道128号をしばらく南下。
小湊という静かな漁師町に行き着く。

ぼくにとっての小湊町は、釣りとシュノーケリングのメッカなのだが、歴史的に見ると、かの日蓮聖人が誕生した地であり、それを記念して1276年に「誕生寺」が建立された場所でもある。現在の「誕生寺」は小湊町きっての観光名所なので、とりあえずはこの寺で参拝。日蓮聖人にご挨拶である。

日蓮聖人の誕生に際しては、ちょっと面白い言い伝えがある。
「三奇瑞」と呼ばれる三つの奇跡のお話だ。
まず一つ目の奇跡は「誕生水」。日蓮聖人が産声を上げたのと同時に、家の庭先から突然、清水が吹き出したという伝説である。

二つ目の奇跡は「蓮華ヶ渕」。日蓮聖人の誕生と同時に、近くの砂浜で季節外れの蓮華の花が一面に咲き誇ったというのだ。そして、その渚は「蓮華ヶ渕」と名付けられ、蓮華の花のように美しく輝くその浜の砂を「五色砂」と呼ぶようになったそうだ。
三つ目の奇跡は「鯛の出現」。日蓮聖人の生誕を祝うかのように、海面に真鯛が群れをなして現れたと言われているのだ。それ以後、人々はこの一帯を「鯛の浦」と呼び、ここに生息している真鯛を日蓮聖人の化身として尊信し、禁漁を続けているのである。
驚くべきは、現在もなお、この海には真鯛の群れが居着いており、餌を撒けばその群れが海面を跳ね回る様子を見られるということだ。

ぼくは釣りをするから分かるのだが、そもそも真鯛というのは水深30〜150メートルほどの深い海の底近くに生息している魚であって、ここ「鯛の浦」のような浅い海(10〜20メートルほど)に生息していること自体が奇跡というべきなのである。学会でも、これほど浅い海に真鯛の群れが定住している理由は解明されていないそうだ。
さて、ここ「鯛の浦」は、そんな稀有な場所ゆえに国の特別天然記念物に指定されているのだが、訪れた観光客がふつうに「奇跡」と出会える名所としても知られている。
つまり、観光遊覧船に乗れば、日蓮聖人の化身たちを実際に見ることができるのだ。
じつを言えば、小学生の頃、ぼくはこの遊覧船に乗ったことがある。そして、藍色の海面をバシャバシャと跳ね回るピンク色の群れに興奮したのだった。

あの感動をもう一度――、というわけで、久しぶりに遊覧船に乗ることにした。
空は秋晴れ。海はぺったりとした凪である。
遊覧船は、「鯛の浦会館」という簡素な資料館のある船着場から出発した――、と同時に、船内のスピーカーから、ひび割れた音で民謡が流れ出した。いかにも「ひと昔前」といった雰囲気が漂い出すのだが、これはこれでいい。昭和チックで、ぼく好みである。
民謡が終わると、バスガイドを彷彿とさせる観光アナウンスが流れ出す。船は、ガイドの内容に合わせて蓮華ヶ淵、五色砂、小弁天、大弁天など、風光明媚な小湊の渚を巡っていく。

そして、いよいよメインイベントである。
お客さんたちは、船の窓から顔を出して、藍色の海原を覗き込む。
船首にいた係のおじさんが餌を撒きはじめると、一気に海面が騒がしくなった。
バシャバシャと水面を切ってジャンプする巨大な魚たちは――。
青い背中と黄色い縦縞が美しいブリ(とヒラマサ)だった。そして、その少し下層をひらひら舞うように泳ぐ魚影は、メジナとイサキである。

日蓮聖人の化身はというと……、釣り師のぼくが見る限り、一匹、もしくは二匹くらいかな。
小学生の頃とは全く違う光景を前にして、ぼくはただ唸るしかなかった。

遊覧が終わって帰港すると、ぼくは、背中に真鯛が描かれた法被を着た船頭に訪ねてみた。
「昔と違って、ブリとヒラマサばかりなんですね」
すると船頭は、よく日焼けした顔に困惑の色を浮かべながら口を開いた。
「ブリもヒラマサも天然だから」
「え……?」
そういう意味じゃないんだけどな……、と後頭部を掻いていたら、船頭はさらに続けた。
「真鯛だって天然だから、季節とか条件によっては出ない日もあるんだよ」
なるほど。まあ、船頭が悪いわけじゃないし、言っていることはもっともなので、ぼくは「ですよねぇ」と笑いながら船を降りた。
すると、同じ船から降りてきたお婆さんたちの集団が「鯛って、あんなにたくさんいるのね」「ほんと、びっくりだわ」と大喜びをしているではないか。
ぼくは、ちょっぴり複雑な思いを抱きつつ、胸裏でつぶやいていた。

今日は「鯛の浦」じゃなくて「ブリの浦」でしたよ――。
とはいえブリは、関東では「モジャコ、ワカシ、イナダ、ワラサ、ブリ」、関西では「モジャコ、ツバス、ハマチ、メジロ、ブリ」と名前が変わる出世魚なので、今日は真鯛じゃなくても「お目出タイ」ということで、まあヨシとしようではないか――。
見上げた空は秋晴れで、海は碧いし、風も優しいのだ。
日蓮聖人のような広い心で、許しましょう。
ぼくはひとつ大きく伸びをして、奇跡の渚をゆっくり歩き出した。

【愚為庵】
〒299-5111
千葉県夷隅郡御宿町上布施2194
TEL:04-7068-5927
http://www.daichi.nu/guian/guian.htm
【大本山 小湊 誕生寺】
〒299-5501
千葉県鴨川市小湊183
TEL:04-7095-2621
【鯛の浦遊覧船】
〒299-5501
千葉県鴨川市小湊183-8
TEL:04-7095-2318
作者:森沢明夫
写真:鈴木正美
写真アシスタント:重枝龍明
編集:西小路梨可(主婦の友社)

