境内登山で地獄のぞき 〜日本寺
あなたは「山派」と「海派」のどちらですか?
と訊かれたら、ぼくは一瞬の迷いもなく「海派です」と答える。
川遊びも大好きなので、正確には「水派」かな。
山登りって、苦行、苦行、苦行……の末に、山頂で一瞬の感動を味わった後、再び下りも苦行、苦行、苦行……。そんなイメージなのだ。
一方の水遊びは、最初から最後まで「ウハウハ!」「気持ちイイ!」「爽快!」とハイテンションで愉しめるのがいい。
学生時代のぼくは水遊びが好きすぎて、一月と二月の厳冬期以外、ひたすら全国の海や川に飛び込んでいたものだ(一月と二月は釣りを愉しんでいた)。
しかし、そんな圧倒的「水派」のぼくが、うっかり何度も登ってしまう山がある。
今回の取材でえっちらおっちら登った鋸山(のこぎりやま)がそれだ。

鋸山は、房総南部に位置し、標高は約三三〇メートル。江戸時代から一九八二年までは石切り場として良質な「房州石」を産出していたが、現在はロープウェイのある観光地だ。最近では「房総のパワースポット」のひとつに数えられることもあるらしい。
鋸山という変わった名前は、石切りでむき出しになった山頂付近の山肌が、まるでノコギリの刃のようにギザギザして見えることからつけられたという。
さて、「水派」のぼくが、どうしてこの山に限って何度も登ってしまうのか? 理由は単純だ。この山の南斜面すべてが「日本寺」の境内だからである。しかも、この境内には、日本一でっかい大仏があるのだ。それがいったどれくらいの大きさなのか、分かりやすく台座も併せた総高で比較すると、こうなる。
・鎌倉の大仏が、十三・三五メートル
・奈良の大仏が、十八・一八メートル
・日本寺の大仏は、三十一・〇五メートル

もはや圧倒的とも言えるスケールなのだ。
人間という生き物は、極端に大きなものと出会ったとき、理屈ではなく、ただただ反射的に感動してしまう。たとえば海でクジラと遭遇したら、思わず歓声をあげてしまうし、樹齢千年を超えるような巨木を見上げたときは、その威容に圧倒されて息を飲む。

鋸山の登山は、この巨大な大仏に感動してからスタートするコースがオススメだ。まずは、でっかいものと対峙して、意味もなくパワーをさずかり、そこからエッサエッサと石段を登っていくのである。
駄洒落ではなく、山頂までの山道はすべて日本寺の参道なので、あちこちに千五百羅漢、百躰観音といった石仏群が点在し、それぞれひと休みしながら鑑賞することができる。そして、それこそが、この登山を「ただの苦行」にさせない理由なのだ。登っている途中にも、下っている途中にも、ちゃんと鑑賞という面白さがある。だから「水派」のぼくも、ついつい足を運んでしまうのだろう。
ちなみにこの山、かつては夏目漱石や正岡子規も訪れているし、さらに古くは空海や慈覚大師などの名僧たちが修行した古道場なのだそうだ。

さて、ひいこら言いながら三〇分ほどかけて山頂に辿り着くと、そこには名物「地獄のぞき」が待ち構えている。これは、石切り場跡の断崖絶壁の上にちょこんと前方に突き出した(いわゆるオーバーハングした)出っ張りの突端まで歩いていき、そこから約一〇〇メートルの崖下を覗き込める、という恐怖の絶景スポットである。

じつはここ、崖下を覗いて総毛立つのも醍醐味なのだが、ふと顔を正面に向ければ、藍色の東京湾の向こうにデーンと鎮座した富士山が見晴るかせる。いや、富士山だけではない。三浦半島、伊豆半島、さらに気象条件がそろえば伊豆七島を含めた関東一円をバーンと望めるのである。

高い山のない千葉県で、これほど雄大な風景と出会えるところは、そうそうないのではなかろうか。
山頂からの絶景を満喫したら、上りとは別のルートで下山をスタート。

下りはじめてすぐに驚くのは、突如として現れる百尺観音の威容だ。
石切場跡の断崖絶壁を削り出して造ったこの巨大な観音様の彫刻は、やはりそのサイズに圧倒されてしまう。ぼくは写真でしか見たことがないけれど、毎回「バーミヤンの大仏」を彷彿とさせる。
百尺観音を過ぎて、さらに下っていくと、小さな滝(不動滝)がある。この滝、雨後はもちろん水量があるのだが、晴天が続くとすぐに枯れてしまうのが惜しい。今回、ぼくが訪れたときは、パラパラとしずくが落ちてくる程度で、「ん、雨?」というくらいの水量だった。
滝から先も、聖徳太子像や弘法大師護摩窟など、色々な石仏を鑑賞できる。

ぼくは時折、足を止めては、道端のスイセンの花の匂いをかいだり、頭上から降ってくる樹々の葉擦れの音を聞いたりしながら、のんびりと降りていった。
そして、しばらくすると、再び大仏様のお膝元へと戻ってくるのである。
下りは、上りと比べると、ずいぶんとラクに感じる。
不思議なもので、出発前より、登山をして戻ってきたときの方が、見上げた大仏様がやさしく見える。
これは、なぜだろう?
身体を動かした爽快感ゆえか、これがパワースポット効果なのか?
理由はよく分からないけれど、とにかく、ぼくは毎回、そう感じているのだ。
よかったら、あなたもぜひ同じコースで日本寺の「境内登山」を試してみて下さい。
ただし、ぼくの経験上、真夏の炎天下は、なかなかきつかったです。しかも、やたらとヤブ蚊が多いので、ちょいと足を止めて石仏を眺めていようものなら、一気に刺されまくります。
というわけで、オススメは冬と春。
山頂の眺望を愉しむためにも、天気予報とにらめっこして、よく晴れた日に繰り出して下さい。

【鋸山 日本寺】
299-2100
千葉県安房郡鋸南町鋸山
作者:森沢明夫
写真:鈴木正美
写真アシスタント:重枝龍明
編集:西小路梨可(主婦の友社)

