
柏の裏通り、通称「ウラカシ」にある刺繍店がちょっと面白い。
店の名は「刺繍 縫」。「ししゅう ぬい」と読む。
何が面白いって、代表の吉岡亮兵さんがまとっている「いい感じ」な雰囲気である。

その吉岡さんの肩書きだけれど、「刺繍 縫」の代表でありながら、刺繍アート作品を創作するアーティストであり、プロのDJでもあり、「ウラカシ百年会」という商店会の理事でもある。この時点ですでに面白さの片鱗が滲み出ているでしょう?
ちなみに、2015年の渋谷芸術祭に吉岡さんが出品した刺繍作品「渋谷」は、見事、優秀賞を受賞している。つまり、本物。


店内に無造作に飾られている「渋谷」は、緻密で美しい刺繍という感じではなく、むしろ様々な色の糸切れをキャンバスにランダムに貼り付けた前衛アートのように見えるのだが、制作の手法を聞いたら、ちょっと違った。これは吉岡さん流の「自由かつ変則的な刺繍」だったのだ。
「糸くずを布にのせて、その上から縫って糸くずを押さえてるんです。よく見ると、渋谷の地図になっているんですよ」
言われてからあらためて見ると、たしかに地図になっている!
そうか、じつは、いろいろと考え抜かれたアートだったのか。さすが受賞作……と、ぼくが感心していたら、そこで、いきなり吉岡さんは肩透かしの台詞を口にするのだ。
「ええと、とくに賞にはこだわってないんです。ただ、のんびり、楽しく、いい気分で作っていられればいいかなって」
アーティストにありがちな、無欲。
しかも、ゆるい。
そう、このゆるさこそが、吉岡さんがまとう「いい感じ」なのだ。



知らぬまに「いい感じ」が伝染して、いい気分になってきたぼくは、直球すぎる言葉を投げてみた。
「吉岡さんが刺繍をするときに、いちばん大事にしていることは?」
すると、ゆるいアーティストは、しばし「うーん」と考えたあとに、こう言ったのである。
「音楽、かな」
もちろん、ぼくの頭のなかは「?」でいっぱいになる。
「え……、音楽って?」
「なんか、こう、ライブをやってる感じで作品を創るんで。やっぱり、いい音楽と、いい音のなかで刺繍をしないと、なんか駄目なんですよねぇ」


ようするに――、スピーカーから流れる「音」が吉岡さんの気分を創り、創られたその気分が、そのまま刺繍に反映されるということらしい。
さすが、DJ、というべきか――。たしかに店内をよく見渡すと、いちばん奥にはターンテーブルと巨大なスピーカーが設置されているし、カホン、ギター、ドラム、三線などの楽器も無造作に置かれている。
「この店、もともとはカラオケスナックだったんですよ。だから防音設備もバッチリで」
と、音にうるさい吉岡さんは悪戯っぽく笑う。
刺繍業界では、おそらく世界でいちばん「いい音」を楽しめる店「刺繍 縫」は、奥さんの良子さんとの共同経営である。

そして、この良子さんもまた、じつに「いい感じ」の人で、いわば、しゃべっていると相手を元気にするようなタイプ、である。
「わたしは小学生の頃から裁縫や刺繍が好きだったんですよね」
そう言いながら、良子さんは最新式の工業用刺繍機を操っている。
いまさらながら書くが、「刺繍 縫」という店は、刺繍のアート作品を売る店ではなく、お客さんから受けたオーダーに合わせて質の高い刺繍をする店である。コンピュータでデザインデータを起こし、最新式の機械がそのデータどおりの刺繍をする。


良子さんいわく、このデータ作りに刺繍店のセンスが出るのだそうだ。
「糸の重ね方とか、糸の向きとか、いろいろな要素をデータとして入力するんですけど、その段階ですでに仕上がりの立体感とかが決まっちゃうんですよね」
良子さんが作成途中のデータ画面を見せてくれたのだが、これが非常に緻密だったので驚いた。
実際に針を動かして刺繍をするのは機械だけれど、その前段階のデータ作りは「ほぼ手作業」と言いたくなるような仕事なのだ。
「細かい刺繍も大変なんですけど、じつは、日の丸がいちばん難しいって言われてるんですよ」
吉岡さんが「刺繍屋あるある」を教えてくれた。
なるほど、シンプルな赤い円をどう縫うか――、データ作成の段階で悩みそうである。

「刺繍 縫」が受けるオーダーは多様だが、たとえば野球やダンスチームのユニフォームであったり、武道で着る「道着」の名前入れだったり、アパレルブランドから依頼される洋服だったりする。小回りの効く個人店ゆえ、注文は一点から受け付けてくれるそうだ。つまり、世界で唯一の「自分だけの刺繍」を作ってもらえるのである。
刺繍の値段を訊ねたら、この日はじめて吉岡さんが「うーん……」と難しそうな顔をした。
「手間のかかり具合とか、発注の数によって違いますけど――」と前置きをして、ざっくりとした値段を教えてくれた。「データ作成料が3000円〜1万5000円くらいで、刺繍は1枚1000円くらいから、ですかね」
上記を基準に、応相談ということだ。

余談だが、この店には、今や貴重な「横振りミシン」がある。ひと針ひと針が横に振れることで刺繍になるという年代物の機械だ。
「このミシンは、70歳以上くらいの刺繍職人でないと知らないような日本独自のミシンです。一人前になるのに15年はかかると言われていて、今これを扱える人は、日本に数人くらいじゃないかな」
もちろん、そのなかの一人が吉岡さんで、しかも、このミシンで創ったアート作品も店内に展示されている。

ウラカシを訪れた際は、ふらりと「刺繍 縫」を覗いてみるといい。
とても「いい感じ」の夫妻と、自由で斬新なアートと、そして「いい音」が迎えてくれるだろう。

【刺繍 縫-nui-】
〒277-0005
千葉県柏市柏3-8-17 グランモール千代田101
TEL:04-7197-4774
※2019年10月時点の内容です。
作者:森沢明夫
写真:鈴木正美
写真クリエイティブマネージメント:重枝龍明
編集:西小路梨可(主婦の友社)

